現在、世界でも注目を集めている「黒糖焼酎」
どうやって誕生したのでしょうか?
時はさかのぼること1609年。
薩摩・島津藩の琉球侵略と時を同じに、奄美も島津の治下になります。
その1年後、琉球への渡航中、台風に遭い中国に漂着した直川智〈すなおかわち〉が、滞在中に習得したサトウキビの栽培、製糖法を持ち帰ったといわれています。
薩摩藩は米による税収確保のため、奄美での米作りにも力を入れていましたが思うように進みませんでした。
そこでサトウキビ作りが奄美の地質に合っていたことに着目した藩は、1745年の米を黒糖に換算し税として納める「換糖上納令」を機に、稲作からサトウキビ栽培を本格化させます。
江戸時代の砂糖は高級品でしたので、薩摩藩は莫大な富を得たといわれています。
さらに1830年から生産した黒糖の全てを藩が買い入れする制度「惣買入制(そうかいいれせい)」が始まり、奄美の人々に過酷な労働が課せられました。
藩は奄美の人々に黒糖生産を強制し、生産が追い付かなくなると、島民の唯一の食糧だったサツマイモ畑のほとんどをサトウキビ畑に転換を命じ、年貢として取り立てました。
奄美の酒造りの歴史は、古くは江戸時代から米を原料とする「泡盛」を中心にお酒が製造されていたと言われていますが、鍋に残った黒糖の洗い汁を発酵させ焼酎を造ったとも言われており、サツマイモやソテツの実などで焼酎を造っていたなど諸説あります。
その後、第二次世界大戦に入ると戦時中、戦後もしばらく米不足が続き泡盛の製造が困難となりました。そこでソテツの実を使った焼酎造りとともに黒糖を使った焼酎造りが行われるようになります。
そして戦後1953年に奄美群島は日本に復帰します。
「黒糖」は焼酎の原料として認められていませんが、本土復帰特別措置として、奄美群島を監督する大島税務署管轄区域内限定で米麹を使用する場合に限り黒糖焼酎を製造を認めるという特例が出されました。
昨年、世界遺産に認定された奄美群島。
これからますます国内外で黒糖焼酎は注目をあびるでしょう。
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