(昨日の投稿の続きです)
江戸の初期より、高級酒として、飲まれいた泡盛、焼酎は、一般庶民にも飲まれるようになります。
それは、いわゆる醪(酵母、麹、穀物原料、水などでアルコール発酵させたもの)で造る泡盛、焼酎ではなく、酒粕焼酎だったようです。
蔦屋重三郎が生まれた1750年2月13日よりも前、
1693年に、江戸で、本朝食鑑という
日本の食物全般について、その性質や食法などを詳しく説明する書が刊行されました。
その中で焼酎について、こう書かれています。
「焼酒は新酒の糟(かす)を甑(こしき)に入れ、蒸して気を上らせ、器で滴露を承けて取る。」
つまり、この時代、江戸では、酒粕で焼酎を造っていたことが分かります。
江戸時代、鎖国したこともあり、戦争もなくなり、人口も増え、お米が足りなくなるという危機に瀕した時、偶然、酒粕から焼酎を造り、アルコールがほぼ0%になった粕を田んぼにまくと、稲の育ちが良くなったということがわかり、清酒の蔵元さんで、造られていきます。
農村では、田植えが終わったお祝いに、酒粕焼酎を飲んだりしていたのだとか。
こういった当時の食料事情からいって、米そのものを使う醪焼酎を庶民が飲んでいたことは考えづらく、蔦屋重三郎さんが生きた時代は、江戸の庶民の間では、酒粕焼酎が飲まれていたと思われます。
蔦屋重三郎さんが住んでいた吉原でも、酒粕焼酎が飲まれていたかは定かではないですが、この時代に、江戸の人たちの宴できっと楽しまれたのに違いない!と思っています。
一方で、この時代、上方でも、焼酎が造られていたのか?
こちらについては、1月16日開催の講座でお話させて頂きます
「ナカノシマ大学 2025年 1月講座」
~焼酎と大阪の深くて意外な関係~
日時 2025年1月16日 18時~19時40分
場所 大阪府立中之島図書館
参加費 2,500円
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